吉野山|日本一の桜と蔵王堂などの世界遺産の見どころ

吉野山の桜が満開の美しい写真 文化や歴史
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桜の名所、吉野山は、数々の歴史の舞台でした。
役行者の聖地、源義経と静御前の悲話、後醍醐天皇の南朝、豊臣秀吉の盛大な花見会。
奈良から吉野への行き方も紹介しています。美しい写真も、ぜひご覧ください。

下千本

下千本
近鉄吉野駅周辺は「下千本」と呼ばれています。
桜の季節の朝7時過ぎの光景です。
多くの人たちが、吉野山をめざして歩いていきます。
まだ、ロープウェイは動いていませんので、徒歩で吉野山まで行きます。

吉野駅の案内板です。
 左上が吉野駅(下千本)
 蔵王堂や吉水神社(中千本)
 水分神社や花矢倉(上千本)
 金峰神社や西行庵(奥千本)

吉野山への入口の、近鉄吉野駅

近鉄吉野駅から吉野山までのロープウェイ
この写真を撮影した日は、下千本の桜の季節は終わっていました。
しかし、奥千本の桜は満開でした。

幣掛神社(しでかけ神社)
吉野山に登る入口にある神社です。
この桜は幣掛桜(しでかけ桜)と呼ばれています。

吉野山の桜の多くは山桜(白山桜)ですが、この桜は「御車(みくるま)返し」という品種です。

「七曲坂」
吉野山までの急な坂道を「七曲坂」と呼んでいます。
アジサイの季節には、写真のようなアジサイが見られます。

中千本から下千本をのぞむ

ロープウェイを使わずに吉野駅から吉野山(中千本)まで歩くこともできます。

約15分~20分くらいです。

中千本の「大橋」に出ました。
今からおよそ700年前。後醍醐天皇の皇子・大塔宮(おおとうのみや)が、鎌倉幕府倒幕にむけて吉野山で挙兵しました。大塔宮は吉野山を城としてこもり、幕府軍に立ち向かいます。
「太平記」によれば、6万人の幕府軍を相手に、3千人の兵で、1週間にわたって持ちこたえたといいます。
そして、この大橋のあたりは激戦地となったようで、今でも「攻めが辻」と呼ばれています。

冬の「大橋」

中千本(蔵王堂までのようす)

黒門
黒門は金峯山寺(きんぷせんじ)の総門で、すなわち吉野一山の総門です。
昔は、公家や大名であっても、この門からは、槍を伏せ、馬を下りて通行したそうです。

桜と黒門
金峯山寺(きんぷせんじ)に向かって歩いていきます。

銅の鳥居

中千本(蔵王堂)

蔵王堂(国宝)

桜の季節です。

蔵王堂前に「大塔宮御陣地」の碑があります。
1333年、後醍醐天皇の第二皇子・大塔宮(おおとうのみや)が鎌倉幕府の大群に攻められて、吉野山に立て籠ったときに、この蔵王堂を本陣として、落城に際して、この前で最後の酒宴を開きました。

村上義光(よしてる)公忠死の所
吉野落城の際、蔵王堂の前庭での酒宴も終わり、「いざ最後の決戦か」というとき、大塔宮の家来の村上義光(よしてる)が、大塔宮の鎧兜を身に付けて、その身代わりとなって、蔵王堂の南にあった二天門上に駆け上がり、腹を一文字にかき切って、壮烈な最期を遂げました。
大塔宮はこの隙に、隣接する勝手神社横の谷を抜け、無事、高野山に落ちのびることができました。

後醍醐天皇導稲荷大神
蔵王堂の境内の一角にあります。
1336年の年末、北朝方との対立が激しくなり、やむをえず秘かに京都を脱出された後醍醐天皇は、途中、夜道に迷われました。
とある稲荷神社の前で、「ともしびを貸していただきたい」と歌を詠まれると、紅い雲が現れて、吉野への道を照らして導き、無事にお着きになることができました。
その後、「導きの稲荷」として、この地で祀られています。

雪の舞う蔵王堂

雪の蔵王堂

中千本(南朝妙法院)

妙法院
桜の満開の季節に、蔵王堂から撮った写真です。

吉野南朝跡
ここが、かっての南朝の皇居跡です。
足利幕府と北朝に対抗する南朝方の拠点として、後醍醐天皇の御座所となっていました。
1336年の12月末に、京都を秘かにのがれた後醍醐天皇は、1339年8月に、52歳の生涯を閉じられました。

中千本(吉水神社)

元は「吉水院」といい、天武天皇の白鳳年間(7世紀後半)に、役行者(えんのぎょうじゃ)が創設した格式の高い僧房でした。
明治時代に、後醍醐天皇の南朝の皇居であったことから、「吉水神社」と改められました。
平安時代の終わりに、源義経が兄・頼朝に追われて、静御前や弁慶らとともに、ここに隠れて住んでいました。
また、後醍醐天皇は南朝の皇居とされ、南朝4代・57年の歴史はここから始まりました。
安土桃山時代には、太閤殿下(豊臣秀吉)が、吉野で盛大な花見の宴をした際に、ここを本陣とされ、数日間滞在されました。

天莫空勾践 時非無范蠡
 てん こうせんむなしゅうするなかれ
  ときに はんれい なきにしもあらず
後醍醐天皇が元弘の変に敗れ、隠岐に流される途中に、ある忠義の武士が桜の木に刻んだ10文字の詩です。

沖に流される後醍醐天皇を励ますために、「いずれ時が来れば、『はんれい』のような忠臣が現れるかも知れません」と、桜の木に刻んだものです。
吉水神社では、この10文字を門前に掲げています。

神社前の案内板
 一目千本
 後醍醐天皇
 後醍醐天皇 玉座の間
 日本最古の書院
 義経の鎧
 役行者像(えんの行者 像)

後醍醐天皇が、この地で桜をながめ詠んだ歌

「ここにても 雲居の桜 咲きにけり
 ただかりそめの 宿と思うに」

吉水神社

吉水神社参拝作法
(とても変わった作法です)

二礼 
十七拍手 (四拍手、四拍手、四拍手、四拍手、一拍手)
一拝

冬の景色です。

中千本(勝手神社)

勝手神社
雪が舞っています。

義経と雪の吉野山で涙ながらに別れた静御前は、従者に金銀を奪われ、さまよっているところを追手に捕まりました。
「ほんとに静御前か」といぶかる荒法師たちに、この勝手神社の前で雅びた姿で舞をまって、荒法師たちを感嘆させたという話が残っています。

大海人皇子(後の天武天皇)が、この神前で琴を奏でていると、背後の山から天女が袖をひるがえして舞いながら現れた、と伝わっています。なお、背後の山は「袖振山」といいます。

中千本(街並み)

修験道開祖の「役行者(えんのぎょうじゃ)」
7世紀末の偉大な修行者で、多くの伝説が残っています。
世界遺産に登録された、吉野山から熊野大社までの「大峰奥駆道(おおみね おくがけみち)」も役行者が開いたものです。常に、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)を従えていました。

前鬼と後鬼は夫婦の鬼で、生駒の山の中で人々に災いをなしていまた。しかし、役行者によって悔い改め、役行者の前には夫が、後ろには妻が常に付き従うようになりました。

旅館や店屋さんの前に飾られている「世界遺産」の提灯
役行者と前鬼・後鬼が描かれています。

陀羅尼助(だらにすけ)
はらいたの妙薬です。
大峰山で修業した役行者が、弟子に作り方を伝授し、その製法が現在も引き継がれています。

桜本坊(さくらもとぼう)
天武天皇が桜の吉夢を見て、建てられた古刹です。

桜の季節
遠くに蔵王堂が見えます。

五郎平茶屋からの桜
中千本の通りから、如意輪堂の方に少し入った所です。

中千本から上千本へ

満開の桜

冬、野生の鹿を見つけました。

遠くに蔵王堂が見えます。

上千本(水分神社)

水分神社(みくまり神社)
水の分配を司る天水分大神(あめのみくまりのおおかみ)が主祭神です。
子守宮(こもりのみや)ともよばれ、子授けや安産・子どもの守り神として信仰されています。
豊臣秀吉が「子授け祈願」をしたところ、子ども(秀頼)を授かりました。
現在の社殿は、その秀頼が1604年に再建したものです。

上千本(高城山付近)

高城山(ツツジが城)
鎌倉時代末期、天皇に政治を取り戻すべく、後醍醐天皇の皇子大塔宮守良親王が吉野山にたてこもり、
寄せくる北条方5万を相手に激しい戦闘を繰り広げました。
その時、砦のひとつとなったのが「ツツジが城」とも称されたこの山で、山頂からは蔵王堂をはじめ金剛山を一望できます。

上千本(金峰神社周辺)

金峯神社(きんぷ神社)
金峰(きんぷ)というのは、このあたりから大峰山にかけての総称です。
古来、この地下には黄金の鉱脈があると信じられてきました。
この山に登って黄金を得た、という話が残っています。

かくれ塔
大峰修行場の一つで、塔に入って扉を閉めると真っ暗になります。そこで神官の先導に従って「吉野なる 深山の奥のかくれ塔 本来 空のすみかなり」と唱えながら堂内を巡ります。
1185年、源義経がこの塔に隠れ、追手から逃れるため屋根を蹴破って外に出たため、「義経の隠れ塔」ともいわれています。

役行者修行場
源義経の隠塔
と書かれています。

奥千本(西行庵周辺)

西行庵
金峰神社から、さらに奥に行きます。

約800年前の鎌倉時代に、西行法師が俗界を避けて、この地にわび住まいをしたところです。
西行法師は、元は皇居を守る武士でしたが、世をはかなんで出家し、月と花をこよなく愛する歌人となりました。

冬と新緑のころ

とくとくと 落つも岩間の苔清水
 汲みほすまでも なきすみかかな  西行法師

少し奥に入っていくと、青根ヶ峰登り口がありました。
そして、その横には「これより女人結界」の石碑がありました。ただし、現在は女性も先に入っていくことはできます。
今も「女人結界」が残っているのは、さらに南の大峰山の山上ヶ岳だけです。

大峰奥崖道は、日本独自の山岳宗教「修験道」の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が、7世紀後半に開きました。吉野と熊野という修験道の二大霊場を結ぶこの道は、修験者(山伏:やまぶし)にとっても、もっとも厳しい修行の道場とされます。
標高千数百mの山々の稜線を踏破する道であり、通常6日間必要です。
また、食料や水、登山の装備などが必要です。

青根ヶ峰の登り口から、南の熊野大社に続く方向を見ています。
大峰奥崖道は、写真の遠くに見える山々の峰を歩くコースです。
1300年以上の歴史がありますが、この道に踏み込むには、相当の覚悟が必要だったと思います。
修行のためには、命を落とすこともいとわない覚悟がなければ、ここから先は入れなかったはずです。

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