郡山城と街の風景 – 豊臣秀吉の弟・秀長が築いた城と町

郡山城の桜と石垣と人の写真 文化や歴史
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郡山城

郡山城は、戦国武将の筒井順慶によって1580年に築城が始まりました。
1585年に、大和大納言と称された豊臣秀長(秀吉の弟)が、100万石の大名として郡山城主となり、その地位にふさわしい城として郡山城を完成させました。
関ヶ原の戦いの後、一時は廃城となりましたが、大坂夏の陣の後、徳川譜代大名が城主となり、1724年には柳沢家が城主になり、幕末まで続きました。

郡山城は、「続日本100名城」の一つに選ばれています。
また、「日本さくら名所100選」の一つにも選ばれています。

桜の満開の時期に、
天守台から東をのぞんだ写真です。
右側の建物は城址(じょうし)会館で旧奈良県図書館の建物です。
その後ろに広がる山は、大和の青垣山です。

天守台から南南西側をのぞんだ写真です。
右中央は奈良県立郡山高校の体育館です。

本丸にある柳沢神社です。
柳沢家は、郡山城の城主として1724年から幕末まで続きました。

極楽橋
令和3年に、本丸と毘沙門曲輪の間にかかっていた橋の復元が完了しました。

天守台から西北西側をのぞんだ写真です。
芝桜が咲いていました。

鷺池と水鳥
二の丸の南側にある堀です。

外堀緑地

外堀緑地南門
外堀の延長は5.5kmに及びました。

街角の案内板です。
現在、丸で囲まれたところが「外堀緑地」として整備されています。

老舗の和菓子屋さん

長く続く和菓子の店

お店の案内板によると、
豊臣秀長公が、兄の太閤殿下・秀吉公を招いてお茶会をした折、初代が献上した「粒あんを餅で包み、きな粉をまぶした餅菓子」を、太閤殿下がとてもお気に召され、「鶯餅」という名を賜ったとのことです。

金魚の町

大和郡山市は金魚の町です。
金魚の歴史は、1724年に柳沢家が郡山城に入部したときに始まるそうです。
年間に約6000万匹の金魚が販売されているそうです。

駅から少し離れた所には、金魚池がたくさんあります。

多くの金魚が養殖されています。

金魚すくいの金魚たち

源九郎稲荷神社

源九郎稲荷神社

源九郎とは、歌舞伎や人形浄瑠璃の「義経千本桜」に出てくる源九郎狐のことです。
狐は源義経が、吉野で、兄・頼朝に追われて逃げる際に、義経の家臣に化けて義経と静御前を守り通しました。
狐の欲しかったものは、静御前が持つ、狐の親の皮でできた初音の鼓(はつねのつづみ)でしたが、義経は狐に感謝して、自らの名である「源九郎」の名を送ったそうです。
それが社名の由来となっています。
豊臣秀吉の弟の秀長が、郡山城主のときに、守護神にしたいと願い、吉野川のほとりから神社を移築したそうです。

中村勘九郎さん植樹の枝垂桜です。
歌舞伎の演目「義経千本桜」が縁で、中村勘九郎さんが2012年に、神社にお参りに来られ、桜と梅を植樹をされたそうです。

紺屋川と箱本館(藍染)

紺屋川
この水を利用して藍染を行っていました。
このあたりを紺屋町といいます。

箱本館
紺屋川の水を使って藍染をしていました。今は、藍染の資料館になっています。
藍染体験もできます。

藍の甕(かめ)が床にずらりと並んでいます。

大和郡山市は金魚の産地。
箱本館にも、たくさんの金魚が飼育されています。
これは、珍しいテレビ型水槽です。

江戸時代の1724年に柳沢吉里(やなぎさわ よしさと)が藩主として甲斐の国(山梨県)から来られたときに、金魚を持参されたのが始まりとされています。

お土産にいかがですか?

町屋物語館

昔の遊郭の跡です。
一時は、下宿屋として使われていました。
3階建ての木造建築です。

玄関です。

外が見えるようにしています。

小さい部屋は3畳の大きさです。

古い照明器具

奈良の伝統的な陶器の赤膚焼(あかはだ焼)です。

金魚の飾りが売られていました。

春岳院

春岳院
豊臣秀長(ひでなが)は、豊臣秀吉の弟で、郡山城の城主でした。
110万石の強大な力をもった大名として、大和・紀伊・和泉・そして河内の一部を治めました。
郡山城や郡山の町も110万石大名にふさわしい規模も城に整備されました。
春岳院は秀長の菩提寺です。

秀長を描いた有名な絵です。
ここ春岳院に保存されています。

荒木又右衛門

伊賀忍者で有名な三重県・上野市であった「鍵屋の辻の決闘」は、日本三大仇討の一つとして有名です。
この時に名をあげたのが荒木又右衛門です。
荒木又右衛門は江戸時代初めの剣術家で、当時は郡山藩の剣道指南役を務めていました。

岡山藩の石川一馬の弟が、同藩の河合又五郎に切り殺された。河合又五郎は逃走し、その後、ある旗本屋敷にかくまわれた。そのため、大名と旗本のメンツのぶつかり合いになっていった。
石川一馬は弟の仇を討つために脱藩し、姉婿の郡山藩の荒木又右衛門に助けを求めたところ、又右衛門も義によって助太刀に応じ、藩の剣道指南役を辞した。
そのころ、河合又五郎は槍や剣の遣い手に守られながら逃走していた。
二人は河合又五郎の逃走経路を見つけ、その先回りをして、上野の鍵屋の辻で待ち伏せ、又五郎の一行を打ち取り、本懐を果たすことができた。
このような話です。

郡山八幡神社

郡山城の南に位置しており、お城の南を守る役割を担っていた由緒ある神社です。

郡山八幡神社は別名「グラブ神社」とも呼ばれており、野球上達の祈願、グラブ祭りの開催、グラブ供養といったユニークな活動を行っていることでも有名です。
全国の野球好きの人は、ぜひ参拝してください。

大納言塚

豊臣秀長の案内板です。
秀長は、秀吉の天下統一を支え、大和・紀伊・和泉・そして河内の一部の110余万石の大名となりました。
そして、52歳で郡山城で亡くなりました。
「もしも、秀長がもう少し長生きしていれば、その後の日本の歴史は大きく変わっていたのではないか」と言われています。

お参りのお礼と自分の名前と願い事を言いながら、砂を3回通します。

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