平城宮跡歴史公園 | 見どころやアクセス・駐車場・イベント紹介

平城宮跡大極殿の左前からの写真 文化や歴史

平城宮跡(へいじょうきゅうせき)は、奈良時代に国の中心が置かれていた場所です。
710年に都が平城京に移されてから、74年間、日本の政治・文化の中心として栄えました。

1998年に世界遺産「古都奈良の文化財」の一つとして登録され、現在は「国営平城宮跡歴史公園」として整備が進められています。

今回は、その見どころを、ゆっくりと散策するように順番に紹介していきます。

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アクセス

  • 電車
    近鉄「大和西大寺駅」または「新大宮駅」から約1.8km、徒歩約25分。
    近鉄「尼ヶ辻駅」から約1.4km、徒歩約20分。
  • バス
    〇「大和西大寺駅南口」12番のりばから高畑町行、「朱雀門ひろば前」バス停下車すぐ。
    〇「近鉄奈良駅」西向き11番乗場、又は「JR奈良駅西口」13番乗場から大和西大寺駅南口行、「朱雀門ひろば前」バス停下車すぐ。
  • 駐車場
    「会場周辺には専用駐車場はございません。ご来場の際は公共交通機関をご利用ください。ご協力お願いします。」と公式ページで紹介されています。

「大和西大寺駅南口」12番のりばの
バスの時刻表です。
(2025年11月8日撮影)


平日は10時台~17時台まで、土・日9時台~17時台まで、毎時0分と30分発です。最終は18時0分です。

大和西大寺駅から徒歩約25分です。


朱雀門前(すざくもん前)

平城宮跡の南端に立つのが、復元された朱雀門です。
平城京の大通りである「朱雀大路(すざくおおじ)」は、この門から羅城門まで3.7kmも続いていました。道幅はなんと70mもあったそうです。

門の前に立つと、当時の都の広がりを感じられます。

 あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり
 いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 

古い歌も、ここに立って読むとまた違った響きがあります。

平城宮跡歴史公園の案内図
中央の北から(上から)
 第一次大極殿
 第一次大極院(復元工事中)
 中央区朝堂院
 (近鉄の線路を挟んで)
 朱雀門
 朱雀門広場
 朱雀大路
(案内図のある現在地)

朱雀門の前では、外国からの使節をもてなしたり、お祝いや儀式を行ったりしました。
この門をくぐると、平城宮の中枢部になります。

平城宮跡は世界遺産として登録されており、復元や保存設備は今も続けられています。

朱雀門から平城宮を眺める

朱雀門から北を眺めると、広々とした平城宮の跡が一望できます。
大極殿の復元はすでに完了し、現在は大極門などの復元が進んでいます。

復元遣唐使船

復元「遣唐使船」
平城宮跡歴史公園入口に設置されています。
長さ30m、幅9.6m、排水量300トンで、159トンまでのものを積むことができる大きさです。
遣唐使船は、630年から838年まで、16回派遣されました。
一隻の遣唐使船には、およそ150人ほどが乗っており、半数は大使などの使節団、通訳、医師、留学生や学問僧などで、残りは漕ぎ手でした。
当初は2隻、8世紀以降は4隻が一団となって派遣されました。

遣唐使船の船尾の部分
遣唐使で有名な人は
 山上憶良(やまのうえのおくら)
 吉備真備(きびのまきび)
 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
 最澄(さいちょう)
 空海(くうかい)
などです。

最初は「北路」、奈良時代になると「南路」経由で海を渡り、唐の都の洛陽をめざしました。

大極殿

大極殿
天皇の即位の儀式などの国家的行事などを行うもっとも重要な場所でした。
平成22年に復元工事が完成しました。

大極殿の内部の高御座(たかみくら)です。
国家儀式の際に天皇が着座した玉座です。

正面から見た高御座(たかみくら)

国家儀式(即位式や元日朝賀)の際には、大極殿前の内庭(ないてい)に貴族が立ち並びました。

大極殿跡の石碑
大極殿は2回に渡って建てられています。
これは第二次大極殿跡です。

第二次大極殿跡の礎石です。
遠くに見えるのが建物が、第一次大極殿です。

井戸の跡

推定宮内省の入口

推定宮内省
ここで、多くの役人が執務をしていました。

東院庭園(とういん庭園)

平城宮跡の東の張り出し部分で、池を中心にした迎賓館のような役割を果たしていたようです。

平城宮いざない館

朱雀門の横にある「平城宮いざない館」です。
平城京に関することを詳しく知ることができます。
そのいくつかを紹介します。

平城京の条坊制です。
横(東西)の通りは一条から九条まで、
縦(南北)の通りは一坊から四坊まで、東西それぞれありました、
現在の奈良市の中心(JRや近鉄の奈良駅のある周辺)は外京(げきょう)と呼ばれた東に張り出した場所でした。
この図の中に、南都七大寺と呼ばれる七つの寺がすべて入っています。
東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、唐招提寺の七つです。

四つの方向を司る四体の霊獣「四神」
 東(右) 青龍
 南(下) 朱雀
 西(左) 白虎
 北(上) 玄武
 


重たい瓦屋根を支える組み方は、とても複雑です。
力を分散するために、素晴らしい工夫がされています。

当時の衣装が展示されていました。
明日香の高松塚が発掘されたとき、天平美人という言葉が流行したことを思い出します。

平城宮跡からは大量の木簡が見つかりました。
これからから、当時のようすがよくわかります。

この木簡は「長屋親王の宮にアワビのささげ物を十組」という意味だと思います。
現在でも、だいたい意味がわかるのがすごいです。

「大庭御薗進上青菜六十束駄二匹 一馬各卅束」

「大庭御園に、青菜60束と馬2匹を献上します 一頭の馬に三十束です」という意味だと思います・
これも、ほぼ読めそうです。

当時は、このようにして物資を運んでいたようです。

棚田嘉十郎 像(たなだ かじゅうろう 像)

入口の棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)像

都が奈良から京都に移った後、平城宮跡は数十年で水田になりました。そして、人々の記憶から次第に消えていきました。
昔、奈良に都があったことは、よく知られていましたが、それがどこだったのかも忘れられてしまいました。
江戸時代の終わりに、藤堂藩古市奉行所の藩士・北浦定正が奈良県の天皇陵の調査をしていたところ、郡山城の北にきれいに区画された道(条坊制)の跡があることに気付き、平城京がそのあたりにあったことを見つけました。
明治になり、東大名誉教授の関野貞が場所を特定して、新聞に発表しました。
ちょうどそのころ、奈良の植木職人の棚田嘉十郎は奈良公園で仕事をしており、よく観光客から「その昔、奈良の都はどこにあったのか」と質問を受けましが、答えることができませんでした。
その後、大極殿跡を訪れ、昔、天皇が住んでいた場所が水田になっているのを見て悲しみ、「一生をかけて保存運動をしよう」と決意しました。
その活動には私財をすべてつぎ込み、貧乏のどん底の中、東京にも何度も保存の陳情に行きました。また、寄付金を集め、そして地元の協力者であった溝部文四郎とともに村人を説得して、水田になっている大極殿跡を購入して保存しようと努めました。
平城遷都1200年となる1910年には、「遷都1200年祭」を行い、保存の重要性をみんなに訴えました。
棚田嘉十郎が亡くなった後も保存活動は続き、最終的に買い上げた土地は国に寄贈されました。
その保存活動が実を結び、現在、「ユネスコの世界遺産」であり、また「国営平城宮跡歴史公園」として受け継がれています。

JR奈良駅前の石碑
明治43年の「平城遷都1200年祭」に集まった人々に、平城宮跡がどちらの方にあるかを知らせる石碑です。
「☜ 平城宮大極殿跡 これより20丁(約2km)」
「明治43年3月建立 棚田嘉十郎」
となっています。

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