飛鳥・藤原の宮都|世界遺産登録が決定した19の遺跡をめぐる

文化や歴史

「飛鳥・藤原の宮都」は、2026年7月26日に世界遺産登録が決定しました。

「飛鳥・藤原の宮都」は、6世紀末から8世紀初頭にかけて、現在の奈良県橿原市・桜井市・明日香村を中心に築かれた宮殿、都、寺院、古墳などの遺跡群です。

この時代、日本は中国大陸や朝鮮半島との交流を通じて、政治制度や建築・土木技術、仏教など新しい文化を取り入れました。特に仏教は広く受け入れられ、寺院の建立が進むとともに、日本の精神文化や建築、彫刻、絵画、墓や葬儀のあり方にも大きな影響を与えました。

飛鳥から藤原京へと政治の中心が移る中で、宮殿や都が計画的に整備され、古代国家の基盤が形づくられていきます。ここでは、その歴史を今に伝える19の世界遺産に登録された遺跡について、それぞれの歴史的背景と特徴を紹介します。


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飛鳥宮跡

飛鳥宮跡は、飛鳥時代に天皇の宮殿が置かれていた場所です。
・舒明天皇(じょめいてんのう)の飛鳥岡本宮
・皇極天皇(こうぎょくてんのう)の飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)
・斉明天皇の後飛鳥岡本宮
・天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)
など、いくつもの宮殿がこの場所につくられました。

発掘調査によって、宮殿の中心となる建物や、政治を行った場所などの跡が見つかっています。乙巳の変(いっしのへん)やその後の政治改革(大化の改新)、天武・持統天皇の時代の国づくりなど、古代日本の歴史を知るうえで、とても重要な宮殿跡です。

乙巳の変(いっしのへん)の舞台です。

645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原氏の祖)が、強大な権力を握っていた蘇我入鹿を討ち、日本の歴史を大きく変えた「乙巳の変」。その舞台となったのが飛鳥板蓋宮です。

この政変をきっかけに、天皇を中心とした新しい政治を目指す改革が始まり、後の「大化の改新」へとつながっていきました。


飛鳥京跡苑池(あすかきょうせき えんち)

飛鳥京跡苑池は、飛鳥宮跡の西側にある古代の庭園跡です。発掘調査によって、南北に分かれた池や石造物、石組み、水を流すための施設などが見つかっています。

池には中島もつくられており、自然の景色を生かして計画的に造られた大きな庭園だったと考えられています。飛鳥時代の庭園文化や高い土木技術を知ることができる、貴重な遺跡です。


飛鳥水落遺跡(あすか みずおち いせき)

飛鳥水落遺跡は、飛鳥川の東側にある古代の施設跡です。ここでは、水を使って時間を測る「漏刻(ろうこく)」という古代の水時計が使われていたと考えられています。

『日本書紀』には、660年に中大兄皇子が漏刻を造ったと記されています。中国などから伝わった時間を測る技術が、飛鳥の宮都で使われていたことを示す貴重な遺跡です。

時の記念日と飛鳥水落遺跡

毎年6月10日は「時の記念日」です。671年6月10日、天智天皇が水時計「漏刻(ろうこく)」で時を知らせたことに由来します。

中大兄皇子(のちの天智天皇)が「時」を管理しようとした背景には、天皇を中心とした新しい国家をつくろうとする政治的な動きがあったと考えられます。
乙巳の変(645年)を経て、中大兄皇子らは、豪族がそれぞれ大きな力を持つ政治から、天皇を中心に国を統治する新しい政治の仕組みへと改革を進めていきました。
こうした国家づくりの中で重要になったのが、「時」を正確に知ることでした。役人の勤務や儀式などを一定の時刻に合わせるためには、国全体で共通の時間を示す仕組みが必要だったと考えられます。
そこで登場したのが、水時計「漏刻(ろうこく)」です。『日本書紀』には、斉明天皇6年(660年)に、皇太子だった中大兄皇子が漏刻を造ったと記されています。その後、漏刻は時刻を知らせるための重要な道具として用いられるようになりました。
正確な時刻を知らせる漏刻は、政治や儀式など、国家の運営を一定の時間に沿って行うための重要な役割を果たしたと考えられます。
現代の私たちから見ると、まさに「時を管理することは、国を治めること」ともいえるでしょう。漏刻は、天皇を中心とした新しい国家づくりを支える、重要な技術の一つだったのです。


酒船石遺跡(さかふねいし遺跡)

酒船石遺跡は、飛鳥の丘陵に残る石造物や石垣、水路などからなる遺跡です。中でも、巨大な石造物「酒船石」がよく知られていますが、何に使われたものなのか、その詳しい用途は今も分かっていません。

周辺からは、大規模な石垣や水路なども見つかっており、飛鳥時代に特殊な施設が計画的につくられていたことが分かります。巨大な石を加工して築かれたこれらの施設は、飛鳥時代の高い土木技術や、宮都の空間を計画的に整備する技術を伝えています。


飛鳥寺跡

飛鳥寺跡は、蘇我馬子(そがのうまこ)が建てた飛鳥寺の跡です。『日本書紀』によると、588年に造営が始まり、596年に塔が建てられたとされています。

飛鳥寺は、日本で初めて本格的な伽藍(がらん)を備えた寺院とされています。朝鮮半島から渡ってきた技術者たちも建設に関わったと考えられています。寺院を建てる技術や瓦をつくる技術とともに、仏教が日本に広まっていったことを知ることができる、古代日本の歴史を考えるうえで大切な遺跡です。

飛鳥寺から元興寺へ

飛鳥寺は、平城京への遷都にともなって奈良の都へ移され、現在の元興寺(がんごうじ)へとつながりました。一方、飛鳥の地にも寺が残り、現在の飛鳥寺へと受け継がれています。
奈良の元興寺周辺には、今も「飛鳥」という地名が残っています。こうした地名からも、古代の飛鳥寺が奈良へ移された歴史を感じることができます。


橘寺跡(たちばなでらあと)

橘寺跡は、明日香村の橘に所在する古代寺院跡で、現在の橘寺の境内と重なる場所にあります。橘寺は聖徳太子ゆかりの寺として知られ、太子が誕生した場所とも伝えられています。

発掘調査では、古代寺院の伽藍に関わる遺構が確認されています。飛鳥宮跡にも近い場所に位置することから、宮殿と寺院が近接して営まれた飛鳥の歴史的な景観を伝える重要な遺跡です。

厩戸皇子(うまやどのおうじ)の名前の由来

聖徳太子は、現在の橘寺(たちばなでら)で生まれたと伝えられています。
母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が宮中を巡っていたとき、厩(うまや)の戸の前で突然、聖徳太子を産んだと伝えられています。
このことから、聖徳太子は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ばれるようになったと伝えられています。


山田寺跡

山田寺跡は、蘇我倉山田石川麻呂が造営を始めた山田寺の遺跡です。山田寺は、造営の経緯が『日本書紀』などの文献にも記されており、文献史料と発掘調査による遺跡の情報を照合できる貴重な例です。

発掘調査では、金堂や塔、回廊などの伽藍跡が確認され、特に東面回廊の建築部材が良好な状態で発見されました。これらは法隆寺よりも古い7世紀の寺院建築を知る重要な資料となっており、飛鳥時代の寺院建築や大陸・朝鮮半島との文化交流を伝えています。


川原寺跡

川原寺跡は、飛鳥宮跡の西側、飛鳥川を挟んだ対岸にある古代寺院の跡です。創建された時期や経緯については諸説ありますが、斉明天皇の時代にあった川原宮との関係も指摘されています。その後、川原寺は皇室と深い関わりを持つ寺院として発展したと考えられています。

川原寺は、塔を一つ、金堂を二つ配置する「一塔二金堂式」という特徴的な伽藍配置だったことがわかっています。また、伽藍配置や瓦などには、大陸や朝鮮半島から伝わった文化の影響もうかがえます。

飛鳥宮と川原寺は飛鳥川を挟んですぐ近くにあり、宮殿と寺院が密接に関わっていた飛鳥時代の政治と宗教の様子を知るうえで、とても重要な遺跡です。


檜隈寺跡(ひのくまでらあと)

檜隈寺跡は、渡来系氏族である東漢氏との関係が深いと考えられている古代寺院の遺跡です。檜隈地域には朝鮮半島から渡来した人々が居住したとされ、飛鳥時代の東アジアとの交流を考えるうえで重要な地域です。

寺院跡からは塔跡や金堂跡など、古代寺院の伽藍を構成する遺構が確認されています。大陸や朝鮮半島からもたらされた建築技術や仏教文化が、渡来人との交流を通じて日本に根付いていったことを示す重要な遺跡です。


石舞台古墳

石舞台古墳は、墳丘の土が失われ、巨大な石室がむき出しになっていることで知られる、飛鳥を代表する古墳です。

埋葬施設には国内最大級の横穴式石室があり、重さ数十トンにもなる巨大な石を使って造られています。墳形は方墳と推定されており、これほど大きな古墳を造ることができたことからも、当時の有力者が大きな力を持っていたことがわかります。

誰が葬られたのかははっきりしていませんが、築造された時期や古墳の規模などから、飛鳥時代の有力者だった蘇我馬子の墓ではないかという説が有力です。

石舞台古墳は、古墳時代から飛鳥時代へと移り変わる中で、古墳の形や墓のつくり方が変化していったことを知ることができる、重要な遺跡です。

「石舞台」の名前の由来は?

巨大な石がむき出しになった石舞台古墳。その名前には、ちょっと不思議な伝説があります。

昔、狐が美しい女性に化けて、古墳の上で舞を踊ったというのです。まるで大きな石の舞台で、狐が踊っているように見えたことから、「石舞台」と呼ばれるようになったとも伝えられています。

本当に狐が踊ったのか、それとも巨大な石が舞台のように見えたからなのか――。そんな想像をしながら石舞台古墳を眺めると、ちょっと楽しくなりますね。


菖蒲池古墳

菖蒲池古墳は、7世紀中頃に造られた方墳です。石室の中には、漆喰(しっくい)で飾られた2つの家形石棺が、南北に並んで置かれています。

誰が葬られたのかはわかっていませんが、当時の有力者の墓と考えられています。2つの家形石棺が並ぶ珍しい造りから、飛鳥時代の有力者の葬送の様子を知るうえで、重要な古墳です。


牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳は、7世紀後半に造られた八角形の古墳です。内部には2つの墓室があり、2人を葬ることができる造りになっています。

誰が葬られたのかは確定していませんが、『日本書紀』の記述などから、斉明天皇とその娘・間人皇女(はしひとのひめみこ)の墓ではないかという説が有力です。

八角形の古墳は、天皇や皇族の墓との関わりが深いと考えられています。牽牛子塚古墳は、飛鳥時代の天皇や皇族の葬送のあり方を知るうえで、重要な古墳です。

「牽牛子(けんごし)」とは?

「牽牛子」とは、古くから朝顔を意味する言葉です。牽牛子塚古墳は、江戸時代以降の文献で「あさがお塚」と呼ばれていました。名前の由来ははっきりしていませんが、八角形の墳丘が朝顔の花びらに似ていたためではないかとも考えられています。

古墳時代の終わりごろに造られた牽牛子塚古墳は、比較的小規模な古墳ですが、天皇や皇族の墓との関係が考えられる特別な八角形をしています。

古墳の大きさを競った時代から、墓の形や意味が重視される時代へ―。
牽牛子塚古墳は、古墳の歴史が大きく変わっていく様子を今に伝える、興味深い古墳です。


藤原宮跡(橿原市)

藤原宮跡は、694年に都が移された藤原京の中心にあった宮殿の跡です。持統・文武・元明の3代の天皇がここで政治を行い、694年から710年までの約16年間、古代日本の政治の中心となりました。

藤原宮には、天皇が政治や儀式を行う大極殿や、役人たちが政務を行う朝堂院などがありました。

また、藤原京は、宮殿を都の中心に置き、その周りに道路を碁盤の目のように整備した、日本初の本格的な都城とされています。

藤原宮跡は、天皇を中心とした新しい国の仕組みが整えられていった時代を知るうえで、とても重要な遺跡です。

実は、藤原宮の「宮域(宮殿部分)」は、後の平城宮や平安宮よりも大きかったことがわかっています。

藤原宮の規模は、東西約925m、南北約906m。1300年以上も前に、これほど広大な宮殿が造られていたのです。
「日本の都といえば平城京や平安京」というイメージがありますが、その前に造られた藤原宮は、宮域(宮殿部分)の規模に限れば、平城宮や平安宮を上回っていました。

まさに「古代日本最大級の宮殿」。藤原宮の巨大さからも、天皇を中心とした新しい国家づくりにかけた、当時の人々の意気込みが伝わってきます。


大官大寺跡

大官大寺跡は、飛鳥時代から藤原京の時代にかけて、国が力を入れて造った大きな寺院の跡です。

『日本書紀』には、百済大寺から高市大寺、そして大官大寺へと続く寺院の歴史が記されています。ただし、現在見つかっている大官大寺の遺跡は、文武天皇の時代を中心に造られたものと考えられています。

発掘調査では、巨大な金堂や塔の跡などが見つかっており、当時の大官大寺が非常に大きな寺院だったことがわかります。大官大寺跡は、国が仏教を大切にし、大きな寺院を整備していった時代を伝える重要な遺跡です。


本薬師寺跡(橿原市)

本薬師寺跡は、奈良市西ノ京にある現在の薬師寺と深い関わりを持つ古代寺院の跡です。

天武天皇が、皇后(のちの持統天皇)の病気が治ることを願って、680年に建立を始めたとされています。天武天皇が亡くなった後は、持統天皇がその遺志を受け継ぎ、寺を完成させました。

寺には金堂と東西2つの塔があり、現在も金堂の礎石や塔の跡などを見ることができます。

平城京に都が移ったとき、寺も現在の薬師寺の場所へ移されたという説がありましたが、現在では、平城京で新たに薬師寺が造られたとする考え方も有力です。

本薬師寺跡は、天皇が深く関わった大きな寺院の歴史を知ることができる、重要な遺跡です。


天武・持統天皇陵古墳

天武・持統天皇陵古墳は、天武天皇と、その皇后である持統天皇が一緒に葬られている陵墓です。

天武天皇は、壬申の乱に勝利して即位し、天皇を中心とした新しい国づくりを進めました。持統天皇はその政策を受け継ぎ、694年には藤原京へ都を移しました。

陵墓は八角形の形をしていたと考えられており、7世紀後半の天皇陵の特徴をよく示しています。

飛鳥から藤原京へと政治の中心が移り、天皇を中心とした国の仕組みが整えられていった時代を知るうえで、重要な陵墓です。

なぜ、天武・持統天皇の陵墓だとわかったの?

この古墳が天武天皇と持統天皇の陵墓だと考えられている理由の一つに、鎌倉時代の盗掘の記録があります。
1235年、陵墓が盗掘されたとき、その内部を見た僧が「阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」という記録を残しました。
そこには、石室の中に2つの棺が置かれていたことや、持統天皇の遺骨を納めたと考えられる銀の骨壺があったことなどが記されています。
この記録は、『日本書紀』にある天武天皇と持統天皇が同じ陵に葬られたという記述ともよく合います。

こうした古い記録と、古墳の場所や八角形と考えられる墳丘の特徴などを合わせて、現在の天武・持統天皇陵が2人の天皇の陵墓だと考えられているのです。


中尾山古墳

中尾山古墳は、7世紀末ごろに造られた、八角形の古墳です。大きさは一辺約30mで、3段に造られていました。墳丘の周りには石が並べられ、二重の八角形の石敷も設けられていました。
石室は、石をきれいに加工して造られた特別な造りで、火葬した遺骨を納めた骨蔵器が置かれていたと考えられています。
古墳の形や造られた時期などから、文武天皇の墓ではないかという説があります。

中尾山古墳は、古墳に遺体を葬る時代から、火葬した遺骨を納める時代へと変わっていく、古代の葬送の変化を知るうえで重要な古墳です。


キトラ古墳

キトラ古墳は、7世紀末から8世紀初めごろに造られた円墳です。

この古墳の大きな特徴は、石室の壁や天井に描かれた美しい壁画です。東西南北の四方には、東の「青龍」、西の「白虎」、南の「朱雀」、北の「玄武」という四神が描かれています。さらに、十二支の動物や、天井には太陽や月、星座などを描いた「天文図」も確認されています。

特に天文図は、古代東アジアの天文学や、当時の人々が宇宙をどのように考えていたのかを知ることができる、非常に貴重な資料です。石室の中に広がる星空を見ていると、1300年以上前の人々が夜空を見上げ、星の動きを観察していたことが伝わってきます。

四神や十二支、天文図などの壁画には、中国大陸や朝鮮半島との文化交流の影響が見られます。

キトラ古墳の「玄武」発見!

1972年、高松塚古墳から美しい壁画が発見されたことで、明日香村の古墳に大きな関心が集まりました。その流れの中で、キトラ古墳についても壁画の存在が期待され、調査が進められました。

1983年、石室を傷つけずに内部を調べるため、ファイバースコープを使った調査が行われ、石室北壁に描かれた「玄武」が確認されました。高松塚古墳に続き、キトラ古墳からも貴重な壁画が見つかったことは、関係者にとって大きな喜びであり、飛鳥の古墳研究に新たなページを開く発見となりました。
その後の調査で、青龍・白虎・朱雀の四神や、天文図、十二支などの壁画も次々と確認されました。

1300年以上もの間、石室の中で静かに眠っていた「玄武」。その姿がファイバースコープによって初めて確認され、現代の私たちの前に姿を現した瞬間だったのです。


高松塚古墳

高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初頭頃に築かれた二段築成の円墳です。1972年に石室内から極彩色の壁画が発見され、日本を代表する壁画古墳として広く知られるようになりました。

石室の壁面には、男女の人物群像、青龍・白虎・玄武の四神、日月などが描かれ、天井には星宿が表現されています。特に女性群像は「飛鳥美人」として知られ、当時の服装や髪型などを知る貴重な資料となっています。壁画には中国や高句麗など東アジアの文化的影響が認められ、飛鳥時代の国際的な文化交流と葬送思想を伝える重要な古墳です。

高松塚古墳の壁画発見には、意外なきっかけがありました。

1970年ごろ、地元の人が古墳の南側にショウガを貯蔵するための穴を掘ったところ、その底から凝灰岩の切石が見つかりました。
「これは、いったい何だろう?」
この発見をきっかけに、丘のように見えていた場所が古墳ではないかと改めて注目されるようになりました。

そして1972年、明日香村が『明日香村史』の編さん事業の一環として発掘調査を行い、奈良県立橿原考古学研究所などが調査を担当しました。
調査が進むと石室が見つかり、さらに3月21日、石室の中から極彩色の美しい壁画が発見されました。

地元の人が偶然見つけた一つの石。それが、1300年以上も眠っていた「飛鳥美人」などの壁画を発見する大きなきっかけになったのです。
高松塚古墳の発見は、まさに一つの小さな発見が、日本中を驚かせる「世紀の大発見」へとつながった出来事でした。


まとめ

飛鳥・藤原の地には、宮殿や寺院、古墳など、古代日本の歴史を伝える貴重な遺跡が今も数多く残されています。

乙巳の変や大化の改新、仏教の広がり、そして藤原京の誕生――。飛鳥から藤原京へと歴史をたどると、天皇を中心とした新しい国が形づくられていく過程が見えてきます。

ここで紹介した19の遺跡には、それぞれに古代の人々の思いや、今につながる歴史が刻まれています。

実際に遺跡を訪ね、1300年以上前の飛鳥・藤原に思いをはせながら、古代日本の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

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