飛鳥(明日香村) – 日本の始まりの地

明日香の山からの耳成山の写真 文化や歴史
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石舞台


明日香村(あすか村)は、6世紀末から7世紀にかけて、約100年間、日本の都でした。
聖徳太子がお生まれになったのが「橘寺」で、大化の改新の舞台になったのは「飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)」でした。初めての本格的な伽藍を備えた仏教寺院は「飛鳥寺」で、時計の始まりは「水落(みずおち)遺跡」でした。このように多くの始まりが飛鳥にあります。

石舞台古墳
蘇我馬子(そがのうまこ:大化の改新で殺された蘇我入鹿の祖父)の墓と言われています。最大級の方墳(上から見るとほぼ正方形)で、横穴式石室だけが残っています。
キツネが女の人に化けて、この上で踊ったという伝説があり、「石舞台」と呼ばれているそうです。

橿原神宮前駅の案内板

飛鳥寺

飛鳥寺
588年に蘇我馬子が創立した日本最初の本格的な仏教寺院です。
本尊の飛鳥大仏(釈迦如来像)は、605年に推古天皇が止利仏師(とりぶっし、鳥仏師とも書く)につくらせた日本最古の仏像です。
面長の顔は、奈良の大仏様の顔とはかなり違います。造られた時代によって、お顔の形が変化しました。訪問される際には、ぜひ確かめてください。

鐘楼と田園風景の中の飛鳥寺

酒舟石(さかふねいし)

酒舟石
長さ5.5m、幅2.3m、厚さ約1mで花崗岩でできています。
酒をしぼる槽、油や薬をつくる道具とも言われています。しかし、東40mの所で水を引く土管などが見つかっていることから、庭園の施設だという説もあります。

酒舟石遺跡
この石垣は平成4年に発見されました。酒舟石の近くで、少し低いところにあります。
調査の結果、3mほどの盛り土をした人工の丘陵で、基礎には明日香産の花崗岩を、その上には天理市から奈良市にかけて分布する凝灰岩質砂岩の切り石が使われています。この地から、天理市までは直線距離で約10kmほどです。
日本書紀に、斉明天皇(天智天皇・天武天皇の母)が「宮の東の山に石を累ねて垣とす(積み重ねて石垣とする)」「石の山丘をつくる」という記事に該当する可能性が高いです。

狂心渠(たぶれごごろのみぞ)
飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)の鳥居の横にある説明板です。
南北が逆になっています。(上が南です)
右手に飛鳥寺があります。
狂心渠(たぶれごごろのみぞ)とは、斉明天皇が飛鳥の都づくりの一環としてつくった幅10mの運河で、長さ1km以上になります。
この運河を利用して、天理市の石上神宮の北にある豊田山から砂岩を運びました。
3万人余りを必要とした運河の大工事は、民から「狂心渠(たぶれごごろのみぞ)」と呼ばれて非難されました。

飛鳥坐神社の横にあった説明です。

飛鳥坐神社(あすかにいます神社)の前
運河はこの川や道のあたりを通っていたようです。

飛鳥坐神社(あすかにいます神社)

天下の奇祭「おんだ祭り」
2月の第一日曜日に行われる「おんだ祭り」は、西日本三大奇祭の一つとしてあげられ、五穀豊穣や子孫繁栄・縁結びを願う祭りで、多くの参拝客でにぎわいます。

水落遺跡

水落遺跡
日本書紀には、「斉明天皇の660年、中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って、人々に時刻を知らせた」と書かれています。
1981年に発掘され、水時計建物と水時計装置が見つかりました。
中大兄皇子は、中国にならい、政治や人々の社会生活を、きっちりした時刻制により秩序づけようとしました。
これは、当時の国家的な大事業であったと言えます。

大きな石は、柱を立てる礎石です。
その周りの小さな石は、その大きな石が動かないように固定している石だそうです。
基礎から、とても頑丈につくられているのがわかります。

水落遺跡にある説明図です。

飛鳥資料館

亀石のレプリカ
明日香には、なぞの石像物がたくさんあります。
そのすべてを見て回るのは大変ですが、この飛鳥資料館の前庭には、多くの石像のレプリカが配置されています。
ぜひ、石像のなぞ解きをしてください。

吉備姫王墓にある猿石(実物の写真です)

高取城への登城道の途中にある猿石(実物の写真です)

キトラ古墳

キトラ古墳
キトラ古墳は7世紀末から8世紀初め(奈良に都が移ったのが710年で8世紀初めです)にごろにつくられた古墳です。
円墳で、下段が直径約14m、上段が直径約9mです。
内部には二上山(奈良と大阪の間にあるラクダの背のような山)産出の凝灰岩を18枚使った石室があります。
鎌倉時代に盗掘を受けていましたが、副葬品の一部などが出土しました。さらに、内部の壁に青龍・白虎・朱雀・玄武の四神や十二支像や天文像が見つかり、高松塚古墳に次ぐ、わが国第二例目の大陸的な古墳壁画であることがわかりました。
その後、すべての壁画を取り外して、修理をするととに、保存・公開が行われています。

キトラ古墳 四神の館 内部の復元石室
四神(しじん)とは、東南西北の四つの方角を守る神のことです。
 東…青龍(せいりゅう)
 南…朱雀(すざく)
 西…白虎(びゃっこ)
 北…玄武(げんぶ)


牽牛子塚古墳(けんごしづか古墳)

牽牛子塚古墳は、7世紀後半につくられた古墳で、八角形の形をしています。
日本でもっとも大きい古墳は、堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵)で、5世紀中期につくられました。奈良時代直前の7世紀後半になると、大規模な古墳はなくなり、この古墳の幅は22mです。
古墳文化は約500年続きましたが、この古墳はその最終段階に造営されたものです。
葬られたのは、斉明天皇又は文武天皇の可能性が高いと考えられています。
内部の石室には、二上山の凝灰岩が使われています。

稲渕(いなぶち)

稲渕は石舞台から奥(南の方)に入った地区です。
[

「日本棚田百選」にも選ばれている棚田で有名で、秋には「かかしコンテスト」が行われます。

明日香の風景

祝戸(いわいど)地区東展望台から望む
石舞台の横から、丘に登っていきます。
明日香村の「のどかな家並み」が広がっています。
中央上の山は「甘樫丘(あまかしのおか)、
左の上のきれいな三角錐の山は「畝傍山(うねびやま)」です。

岡寺
西国三十三所の第七番札所です。
本尊は天平時代作で、女性の厄除け観音として信仰を集めている如意輪観音坐像です。
高さ4.6mで、日本最大の塑像(そぞう:粘土でつくった像)です。

蘇我入鹿 首塚
645年に、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏の祖)による「大化の改新」がありました。
聖徳太子が亡くなった後、大きな力をもった曽我氏に対して危機感を抱いた二人は、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で行われた儀式の最中に、蘇我入鹿(そがのいるか)に切りかかり、入鹿を殺しました。
その入鹿の首は600m離れた、この首塚まで飛んできたという伝説があります。
首塚の向こうに見える丘は「甘樫丘(あまかしのおか)」で曽我氏の邸宅がありました。
入鹿が殺された後、父の蝦夷(えみし)は、邸宅に火を放って自害しました。

明日香村の家々のようす
「日本の原風景」とよばれる、懐かしい景色が、残っています。

明日香を歩いていると、
 楽しい案内板を見つけました。
 そこには、次のように書かれていました。

日本国創成のとき ~飛鳥を翔(かけ)た女性たち
  いまから約1400年前の7世紀
  激動する世界の中で、『日本国』が誕生した。
  そこには女性たちの熱き想いが
  込められていたのである。」

上の案内板の一部拡大です。

雷丘(いかづちのおか)と畝傍山
雷丘は標高110mほどの小さな丘です。
甘樫丘(あまがしのおか)のすぐ北にあります。
日本書紀には、その名前の通り、「雷神」が降臨する聖なる山ということが書かれています。
その右手奥に見えるのは「畝傍山」です。神武天皇が初代天皇に即位したのは、この畝傍山のふもとです。
さらに、その右の遠くに見えるのは「二上山(にじょうざん)」です。

犬養万葉記念館
飛鳥をこよなく愛した犬養孝さんを顕彰した記念館です。独特の「犬養節」で、万葉集を日本人の身近なものにしていただきました。
入口の石碑には「万葉は青春のいのち」と刻まれています。

書状集箱
明治4年、郵便創業当時に使用されていたものと同じ型のもので、「書状集箱」と言います。
犬養万葉記念館の前に設置されています。

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