
信貴山 朝護孫子寺

今から約1400年前、聖徳太子がこの山で毘沙門天王を感じ悟られ、大きなご利益を受けられたと伝えられています。それが寅年の寅の日、寅の刻だったため、信貴山の毘沙門天に寅の日にお参りすると、ご利益を得られるとして昔から信仰されてきました。
さらに、約700年ほど前、後醍醐天皇の病気回復を命蓮上人(みょうれんしょうにん)という高僧が毘沙門天王に祈ったところ、たちまち良くなったため、「朝護孫子寺」という寺名を天皇から賜ったとのことです。

開運橋から山門へ

入口の信貴大橋から、大門ダムにかかる開運橋(かいうんばし)を望んだ写真です。
橋の中央にある施設はバンジージャンプ台です。
右手の山が信貴山です。

開運橋(かいうんばし)
全長106mの鉄製の橋。
「カンチレバー」という工法で昭和6年に完成しました。
この形式の橋で戦前につくられたものはほとんど残っておらず、この橋が日本最古の「カンチレバー橋」です。国の登録有形文化財に選定されています。
「カンチレバー」は、片側が固定されていてもう片側が支えなしに突き出している構造のことです。ジャンプ台のような構造です。

駐車場から境内に入ります。

右に本堂、左に宝蔵院、中央上に空鉢護法堂(信貴山頂)があります。
開山堂

開山堂
四国八十八ヶ所のご本尊が祀られています。

剱鎧護法(けんがいごほう)

参道右にある剱鎧護法(けんがいごほう)です。
剱鎧童子(けんがいどうじ)が祀られています。
高僧の祈りに応じて、重病の後醍醐天皇の枕元に剱鎧童子が現れると、たちまち天皇の病は癒されたとのことです。
無病息災、病気全快の霊験あらたかな神として、人々に篤く信仰されています。


剱鎧護法(けんがいごほう)の参道です。
奉納された鳥居が続いています。

剱鎧護法(けんがいごほう)
参道

参道横の大寅
「世界一福寅」という名前です。
聖徳太子が毘沙門天王を感じ悟られたのが寅年の寅の日、寅の刻でした。
そこで信貴山では、寅年、寅の日を縁日と定め、大法要が行われています。




聖徳太子像

神木 榧の木(かやのき)
樹齢1500年とされる神木です。
聖徳太子が活躍されたのが約1400年前ですので、そのころから世の中の移り変わりを見てきたご神木になります。

境内で見つけた「虎の郵便ポスト」
玉蔵院(ぎょくぞういん)

玉蔵院(ぎょくぞういん)
祈願寺として、また宿坊のあるお寺として親しまれています。
多宝塔

多宝塔
本堂

本堂が見えてきました。
左手に手水舎があります。

手水鉢です。
後ろに、空鉢護法堂にお供えする水を入れる容器が並んでいます。
ここに水を入れて、空鉢護法堂に参拝します。

本堂です。
舞台からの奈良盆地の景色はきれいです。

信貴山は毘沙門天王が日本で最初に出現された霊地です。
毘沙門天王信仰の総本山です。


戒壇めぐり
本堂の地下を巡ることができます。
真っ暗な通路を右手で壁をつたいながら進んでいきます。
毘沙門天王より授かった「如意宝珠」が、本堂の地下に祀られています。
その珠が蔵められている部屋の錠前に触れると心願成就のご利益をいただけるそうです。
真っ暗ですので、錠前はまったく見えませんが、壁をつたって歩いていると、手に触れますのでわかります。


信貴山の少し東にある法隆寺・斑鳩の里(いかるがの里)の方向を向いています。
遠くに見える山は「青垣山」と呼ばれる奈良盆地の東に広がる山々です。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が臨終の際に詠んだ「国思いの歌」を思い出します。
大和は 国のまほろば
青垣 山籠れる(やまごもれる)
大和し うるはし

舞台から西の方角を望むと、信貴山が見えます。
この後、山頂の空鉢護法堂に向かいます。
空鉢護法堂(くうはつごほうどう)

容器に水をたっぷり入れました。
空鉢護法堂(くうはつごほうどう)は山頂にあるため、水がありません。
参拝者は、容器に水を詰めて登り、水をお供えします。お供えの後は、水を大きなバケツに入れ、空の容器をこの場所に持ち帰ります。


空鉢護法堂(くうはつごほうどう)への参道です。

空鉢護法堂の入口
空鉢護法の言い伝え
京都の山﨑に住んでいた長者は、裕福でしたが、大変欲深い人でした。
そこで、信貴山の命蓮(みょうれん)上人は、ある奇跡を行いました。
空鉢(何も入っていない鉢)を使って、この鉢の上に長者の貯め込んだものが入っている蔵を載せると、そのまま鉢が浮かび上がって、空高く飛び去ってしまいました。
財産が消えてしまった長者は、蔵を返してほしいと懇願します。また、これまでいかに貧欲だったかを反省します。
命蓮(みょうれん)上人は、慈悲の心をもち、財産に執着することの無意味さや、他人に分け与えることの大切さを説き、蔵を返しました。
その後、長者は施しを行い、善行を積んだと言われています。

空鉢護法堂(くうはつごほうどう)です。
お水をお供えしました。


南東の景色です。
この空鉢護法堂(くうはつごほうどう)は信貴山の雄岳の頂上にあります。

南側の景色です。
二上山や葛城山、金剛山の方向です。
信貴山城

雄岳と雌岳の中間にある案内板です。
赤印の現在地の左側が雌岳、右側が雄岳(空鉢護法堂)です。
雄岳のさらに右側に松永屋敷があります。
雄岳の北側の少し離れたところに高安山があります。

雌岳の頂上(標高399m)
ちなみに、雄岳は標高437mです。

信貴山城は東西550m、南北700mにわたって広がっていました。
1559年に三好長慶(みよし ながよし)の重臣、松永久秀(ひさひで)が入城し、大和国支配の拠点としました。
1577年に松永久秀は織田信長と対立し、信貴山城で籠城しましたが、織田勢に攻撃され自害しました。当時、信貴山頂には天守があったそうです。
松永久秀の愛用していた茶釜「平蜘蛛(ひらぐも)」にまつわる有名なエピソードがあります。
1577年、信貴山城が織田信長軍に包囲された際、信長は久秀に降伏を勧め、平蜘蛛の茶釜を渡すよう求めて、「差し出せば命を助ける」と伝えたといいます。しかし、久秀はこれを拒否し、落城のさいに、茶釜を自らの手で打ち砕き、自害したということです。(真偽はわかりません)

高安城

信貴山から大阪府に向かうと(西の方向)、高安城跡があります。
「日本書紀」に、「大和国に高安城、讃岐国に屋島城、対馬国に金田城を築く」とあります。
663年、朝鮮半島の「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」で、日本が百済を救うために派遣した軍が、唐・新羅連合軍に大敗しました。
天智天皇は唐の侵攻に備えて、3つの城を築き、守りを固めました。
高安山は標高487mで、奈良県と大阪府の境にあり、山の南を流れる大和川やその一帯は、大阪から奈良(大和)に向かう重要なルートでした。
高安山からは、大阪平野や大阪湾、奈良盆地を見渡すことができます。

高安城倉庫跡の礎石です。

高安山頂上




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